マイ・ワンダー・スタジオ
新しい仲間
金曜日, 3月 18, 2011

新しい仲間

 ジェンナは、やきもきしていた。自分の世界がめちゃくちゃになるんじゃないかと、気をもんでいたんだ。それはすべて、最近ジェンナの学校に転校してきたばかりのスウェーデン人の女の子、ブリジットに関係があった。ブリジットは、ジェンナのクラス、さらにはジェンナのバンドに編入してきたからね。そしておそらくはもう、ジェンナの親友仲間の輪にも侵入しつつあることだろう!

 ジェンナは、物事が変わるのを望んではいなかった。今の友だちや、音楽クラブの進歩に満足していたからだ。だけど、今はブリジットがいる。ジェンナは、それをどう受け留めたらいいのか、わからなかった。

 近所にだれかが越してきたか、君のクラスに転校生が来たけど、その人を自分の世界に歓迎できないように感じたことって、あるかい? すでに居心地のいい友だちの輪があり、すべてが快適ですばらしかったのに、だれか新しい人が来て、何というか、ただ単に、この「侵入者」を受け入れる気分にはなれなかったとかね。君の仲間のグループの調子がくるったりはしないかと案じ、物事が変わったらやだな~なんて思ったりしたことはあるかな。

 だれかが君のグループや学校にやって来た時、その人たちを暖かく迎え入れてあげることを学ぶのは、大切なことだよ。

 君たちがその新しい人を仲間の輪に入れてあげなかったら、その人はどう感じるだろう? もし自分がその人の立場だったらどう感じるか、考えてごらん。拒絶され、傷つき、ひとりぼっちに感じるだろうね。

 聖書には、こう書いてあるんだ。「わたしたちはたがいに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。」(ヨハネの第一の手紙 4:7a) また「いっさいのことを、愛をもって行いなさい。」(コリント人への第一の手紙 16:14) つまり、新しい人と会ったり、新しい友だちを作ることに関しては、たとえ不安な気持ちや心配事があったとしても、会うすべての人に対して愛を広めることを、神様はわたしたちに期待しておられるということなんだ。会うすべての人と親友にはならなくても、関心や思いやりは示さなくてはいけないんだよ。それが愛の現れだからね。

 愛は、イエス様がすべてのクリスチャンに期待しておられる基本的なことなんだ。「何よりもまず、たがいの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」(ペテロの第一の手紙 4:8) 仲間の輪を、ほかの人たちを閉め出してしまうほど小さくするのではなく、だれでも入れるくらい大きなものにすることで、君は愛を示すことができる。「不平を言わずに、たがいにもてなし合いなさい。」(ペテロの第一の手紙 4:9)

 だれかが、君が付き合いたいと思うような大好きなタイプの人でなくても、それは理解できるよ。もっとも、もしそういった人たちといっしょに時間を過ごそうとさえしなければ、その人たちが、本当は君とものすごくウマが合う人たちかもしれないとはわからないかもしれないけどね! だけど、たとえ君の親友にはならなくても、その人を愛し、受け入れる必要があるんだ。イエス様が愛し、創造してくださった人としてね。

 たとえその人と共通点があると感じなくても、このことは共通だよ。つまり、君たちはみんな、神様が御自身に似せて造られた創造物であり、イエス様は、君のためにしてくださったように、その人のためにも十字架の上で死んでくださったということなんだ。それほど、神様は君もその人のことも、気にかけてくださっているんだよ。

 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造された。」(創世記 1:27)

 君も大きくなってくると、友情の大切さや、友だちが君の人生にもたらす喜びや強みがどんなものなのか、だんだんとわかってくるだろう。だから、今はできるだけのことをして、他の人を気にかけ、思いやるという習慣を築いておくといい。そうすれば、他の人に手を差しのべ、その人を受け入れ、自分の友情の輪の中、さらには君の人生の中に受け入れてあげることが、上手になるよ。

暗記のための聖句:「愛する者たちよ。わたしたちはたがいに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネの第一の手紙 4:7-8)

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タグ: コミュニケーション, 友情