そのすべての核心にあるもの、No.2:神の忍耐とあわれみと恵み
神様は、聖く義で公正であるだけではなく、忍耐強く、あわれみと恵みに満ちた方でもあります。
忍耐
神様の忍耐を表すヘブル語の言葉には、「辛抱強い」、「すぐに怒らない」、「がまん強い」、「寛容」、などの意味があります。例えば、「人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである」*1*のを神様が見られた時には、「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」*2*られましたが、神様が地上に洪水をもたらす前には、それらの人々のいる中で、ノアが箱舟を作るのに120年という年月が流れています。
ノアは、「義を説いていたノア」と呼ばれているので、おそらくは、これから起ころうとしていた洪水という裁きについて説いていたのでしょう。または、少なくとも箱舟の存在が、これから起こることについての証しとなっていたことでしょう。それでも人々は悪行をやめなかったので、時が来ると、神様は彼らが受けるべき裁きをもたらされたのでした。
罪を裁く、聖くて義なる神様は、忍耐強くもあるので、即座に裁きを下したりはされません。神様の忍耐は、神の愛を表しています。神様は人々に、変わり、悔い改める時間を与えて下さるのです。神様の愛と優しさと忍耐は、私達を悔い改めに導いてくれます。
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(口語訳聖書、ペテロの第二の手紙3:9)
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(口語訳聖書、ローマ人への手紙2:4)
神様は世界を愛し、また人類を愛しておられるので、誰一人として滅びてほしくありません。ですから、忍耐強く待ちながら、人々が悔い改めて変わるための機会を与えておられるのです。神の忍耐は、神の義や公正と矛盾してはいません。神様は辛抱強いので、一時的な猶予を認めることもありますが、それは、悔い改めない人達をゆるすということではありません。神の義に基づいて、いずれ裁きは訪れるのです。*3*
神様は、私達に恩恵や愛をおしみなく与えることを選ばれました。私達はそれにふさわしくなく、それを受ける権利もなく、働きによって得る方法もないのにです。私達が値しないこの恩恵は、神の恵みとして知られています。
それを受け取る正当な理由がなくても、求められていなくても、反対されても、それでも神様は、私達に愛を下さいます。恵み深いことが、神の本質だからです。
主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。(口語訳聖書、詩篇145:8)
あなたは大いなるあわれみによって彼らを絶やさず、また彼らを捨てられませんでした。あなたは恵みあり、あわれみある神でいらせられるからです。(口語訳聖書、ネヘミヤ記9:31)
神の恵みを表す最高の例は、イエスによる救いです。努力して得たり、それに値するからという理由で救いを得られる人は、誰もいません。今までに犯した過ちや、これからも犯すであろう過ちのゆえに、私達は罰を受けるにふさわしいのですが、神の愛によって、また、人間の姿をまとって私達の罪のために喜んで死んで下さったイエス様によって、神様は私達に救いという贈り物を下さいました。つまり、私達は恵みによって救われているのです。それに値するような働きをしたからではありません。私達を愛し、私達をあがなうために御自身の一人子を与えて下さった、恵み深き神様によって、与えられているのです。
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(口語訳聖書、エペソ人への手紙2:8)
ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(口語訳聖書、ヘブル人への手紙2:9)
神のあわれみとは、みじめでつらい思いをし、助けが必要な人に対して示される、神の愛や優しさであると考えられるでしょう。それは、受けるにふさわしくない人にも示されます。人間は罪深く、罪の結果を身に負うことになるので、私達はあわれな状態にあり、神様の助けを必要としています。神様は、助けが必要な人をかわいそうに思われます。神様は情け深く、あわれみを示して下さいます。神様を愛する人達にも、神様を愛していない人達に対してもです。
主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます。(口語訳聖書、詩篇86:5)
それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、(口語訳聖書、申命記7:9)
主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。(新共同訳聖書、詩編145:9)
あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。(口語訳聖書、ルカによる福音書6:35-36)
人類に対する神様のあわれみを表す最高の例は、イエス様が人間の姿で来られ、私達の罪のために死なれたことです。
神様が義であるということは、すべての人に対して公平でなければならず、罪を犯す者達を裁き、罰しなければならないということです。神のあわれみと忍耐は、情け深い愛と共に、人々に悔い改める時間を与えてくれます。神はその愛とあわれみのゆえに、罪人である私達があがなわれるための道を作って下さいました。神の聖さと義、それに神の恵みとあわれみはすべて、神の性質や性格であり、神の存在そのものの一部ですが、そのすべてが神の愛の内に共に働き、人には不可能なことが成されました。つまり、私達の罪をあがない、罪のもたらす神との隔ての中垣を取り去り、それによって、私達が神と共に永遠に生きることができるようにして下さったのです。(エペソ人への手紙2:1-8を読んでね。)
脚注:
*1* 口語訳聖書、創世記6:5
*2* 口語訳聖書、創世記6:6
*3* ナホム書1:3参照