「ついには自分の息子に」*1*
11歳のマーセラス・ガルスは、木でできたおもちゃの剣を振り回し、空想の馬に乗って空想の敵と戦う真似をしながら、両親の所有する古代ローマ時代の屋敷内のほこりっぽい敷地を走り回っていた。
「さあ、来るならかかって来い!」 そう叫びながら、マーセラスは想像上の敵を挑発した。そして剣を落とすと、想像上の傷を負った肩をおさえながら、土ぼこりの上に転がり込んだ。
「我に勝ったと思うのか!」 そう叫んで、マーセラスはトーガから木製の短剣を取り出した。その時、人影が彼の上を通り過ぎた。目を細めて見ると、それは、12歳のユダヤ人の奴隷少年ヨラムの影だった。彼は、金槌と釘と板を持って、馬屋の裏にある柵に向かっていた。ヨラムは、素早く立ち上がったマーセラスの方を振り返って、ほほ笑んだ。
「今日はどんな仕事を?」と、マーセラスがたずねた。
「夕べの嵐で壊れた柵を直すんだ。君の方は?」と、ヨラムが言った。
マーセラスは肩をすくめて言った。「何も。ただ遊ぶだけさ。」
「ぼくもいっしょに遊べたらなぁ。一人で遊ぶのって、楽しいかい?」と、ヨラムがたずねた。
「あんまり。ねぇ、仕事が終わったら、いっしょに遊ばないか?」
「何の遊び?」
「ガリア人と戦うんだ!」
ヨラムはニヤリと笑ってうなずいた。「午後になっちゃうけどね。」
遠くの放牧場から聞こえてくる馬のいななきと、木に釘を打つ音を耳にしながら、マーセラスは再び空想の世界にひたった。しばらくして、彼は空想の世界の敵を激しく追い詰めながら、柵に向かって空想の馬を走らせた。
(飛び越えられそうだぞ。あまり高くないし。) そう思ったマーセラスは、手を伸ばした。
悲鳴がしたので、ヨラムは持っていた金槌を投げ捨て、声がした場所へ駆け付けた。ぎゅっと握りしめたマーセラスの手からは、血が流れていた。
「柵を直してたんじゃなかったのか?」と、マーセラスが叫んだ。
ヨラムは済まなそうにうなずいた。
「どうして、釘が出てるって教えてくれなかったんだよ?」
「本当にごめん。板が全部きちんと固定されてから、出ている部分を平らにしようと思っていたんだ。助けを呼んでくるよ・・・」
「呼ばなくてもいい。父上にこのことを話すぞ。むち打ちの刑になるからな。」
「ただ仕事をしていただけなのに。でも、本当にごめんね。」と、ヨラムが言った。
「どうでもいいさ。もう、いっしょに遊ばないぞ。2度とね!」
すると、白髪をきれいに編み込み、サフラン色の衣をまとった、優しそうな女性が近づいて来た。
「さっき、叫んでたわよね、マーセラス。一体どうしたの?」
「あの柵を飛び越えようとしたら、このユダヤ人奴隷が、板から突き出た大きな釘をそのまま放っておいたんだ。それで・・・」
「ひどい傷ね。」 血が流れる傷を見て、女性が言った。
「母上、みんな、あいつのせいなんだ。」 マーセラスがうめき声で言った。
「今はそんなことを言ってる場合じゃないわ。お医者様に診てもらわないと。」
「だけど、あいつは罰を受けないの?」
「誰のこと?」
「この奴隷少年だよ。」
女性は、うなだれてしょんぼりと突っ立っている少年の方に目を向けた。
「ヨラム、柵の修繕と今日の仕事が終わったら、夕食の時間まで、自分の部屋にいて。」 彼女は穏やかに言った。
「はい、ドミティラ様。本当に申し訳ありません。どうか、おゆるしを。」
「ゆるすわ。きっと、息子もゆるしてくれるでしょう。」
「いや。ぼくは絶対にゆるさないからな。」 マーセラスは母親に連れられながら、そう言い捨てた。
護民官のクレメンス・ガルスは、屋敷の敷居をまたぐと、羽根飾りのついたヘルメットをぬいで、額の汗をぬぐった。妻は彼をキスでむかえると、彼の肩から緋色の重いマントを持ち上げた。
「大変な1日だったのね?」
クレメンスはうなずきながら、つかれた顔でほほ笑んだ。「文字通り、ひどく骨の折れる仕事だったよ、ドミティラ。減税を求める群衆を鎮圧しなければならなかったからねぇ!
だが、これを使わなくて済んだのは幸いだった。」 クレメンスは剣を外しながら言った。「彼らの不満は解決してあげたいが・・・
不満と言えば、うちでは何があったんだい?」 手に包帯を巻いて窓際の椅子でうつむいているマーセラスを見て、クレメンスはたずねた。
「事故があったの。」と、ドミティラ。
「事故じゃないよ、母上。最近うちに来たあのユダヤ人奴隷が・・・」
「ヨラムっていうの。」と、母親が言った。
マーセラスは続けた。「父上。あいつは柵を直していたとき、突き出た釘をそのままにしていたんだ。だから、ぼくが柵を飛び越えようとした時、その釘が手に刺さったんだ。全部、やつのせいだよ。」
「わざとではなかったのよ。それに、すごく反省していたわ。」と、ドミティラ。
「関係ないさ。あいつがいなければ、こんなことにはならなかったんだから。医者は、もう2度と、まともに手を使えるようにはならないだろうって。剣や槍を握ることもできなくなるんだ。」
「何だって? それは本当か?」 驚いたクレメンスが声を上げた。
「釘で腱が切れてしまったの。できることはないって。」と、ドミティラが言った。
「そんなやつは、明日、むち打ちの刑にしてやる!」 クレメンスは胸を打ちながら、大声で言い放った。
「あなた、ちょっと待って。ヨラムは、自分の仕事をしていただけなのよ。」
「自分の仕事をしていただけだと!」
そこでクレメンスは、はっとした。真っ赤になった顔が青ざめ、しばらく行ったり来たりしていたが、その後部屋を出て行った。まもなくすると、彼は部屋にもどって来て、非常に慎重な素振りでマーセラスのそばにひざまずいた。
「カッとなってしまって、済まなかった。私が今仕えている神の国の律法に完全に違反していたよ。」と、クレメンスは静かに言った。
「どういうこと、父上? やつを罰することが、神聖なローマの正義でしょ。」
「息子よ。私が以前ユダヤの国で歩兵をしていた時の話をしたのを、覚えているかい?」
マーセラスはうなずいた。「丘で反乱軍と戦った時のことでしょ?」
「ああ。それである日、私は3人の男を十字架に磔にするという不愉快な仕事を与えられた。」
「悪い人達?」
「二人は強盗で、もう一人のナザレ人は・・・その・・・彼は・・・」
クレメンスは言葉に詰まった。唇が震えている。
「嫌なら話さなくていいのよ、あなた。」と、ドミティラが言った。
「いや、話さなくては。」 そう言って、クレメンスは話を続けた。「私はこの男の手に釘を打ち込んでいた。耐えがたい痛みだったはずだ。だが彼は、分かっているよというような目で私をちらっと見たんだ。そして、我々が十字架を起こして立てていた時には、実にはっきりと、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』と叫んだんだ。私は今日に至るまで、あんなに不当で残虐な目にあっているのに、そのような言動をする人を見たことがない。」
「不当なの? 父上、その人は悪人だったんでしょう?」
「私の知る限り、彼は何も間違ったことはしていなかった。それどころか、良い話ばかり聞いている。ユダヤ人なのに、百卒長のしもべさえ癒やして下さったそうだ。誰かがふざけて書いたのかもしれないが、頭上に釘付けされた罪状書きには、3か国語で、ナザレ出身のユダヤ人の王と書かれていた。
だが、私は単に自分の仕事をしていただけで、きっと正当な理由で判決を受けたのだろうと思っていた。だから嫌な仕事の後は、他の兵士達といっしょに3本の十字架の下に座り、酔っぱらってサイコロを振っていた。」
「その後、どうなったの?」
「彼が息を引き取ると、3時間ほど、空が真っ暗になった。非常に不吉な雰囲気だった。当番の百卒長は、この出来事でかなり動揺し、涙を流しながら、立ち上がって、この義人は本当に神の子だったと宣言した。何年かたって彼が私に言ったことなのだが、そのころまでにはローマ中に広まりつつあったキリスト教というものの創始者を、私達は十字架にかけてしまったということだった。」
「じゃあ、この信仰って、死人への信仰なの?」
「彼は死んだままではいなかった。私達が・・・いや、私が彼を十字架につけてしまったその3日後に、生き返ったのだ。それを証言する人々が大勢いた。最も親しかった人達もだ。」
「でも父上は、生き返ったその人を実際に見た訳じゃないんでしょう?」
「ああ。だが、そう証言した人達には、嘘をつく理由がない。彼らの証言を聞いた後、私が彼を呼び求めると、彼は私の心に語りかけて下さった。私はゆるされたと言って安心させて下さったのだ。」
クレメンスは、声を低くした。「マーセラス。このことは、他の人に話してはいけないよ。それから、母上は最近、信者の何人かと知り合いになったそうだ。」
「本当、母上? クリスチャンと?」
ドミティラはうなずいて、窓際の腰かけに座った。
「だけど、彼らは悪人だよ。かくれて悪いことをしてるって聞いたもの。」と、マーセラス。
「マーセラス。彼らは悪い人達じゃないわ。彼らとの交流は貴重なの。人目に付かないように彼らに会っているけれど、今までこんなに楽しい人達に会ったことがないわ。友達や親せきでもね。」 そう言うと、ドミティラはクスクスと笑った。
「中には人の悪口を言う友達もいるけど、この人達は、その場にいない人達のことでも、いいことしか言わないのよ。とにかく、地下教会でも、人が集まるのはどんどん危険になっていて、ヨラムも両親が闘技場で殺されてしまったの。だから、私達が彼を引き取ることにしたのよ。」
「ライオンにやられたの?」
ドミティラは窓の外を見つめながら、うなずいた。
「それで、ヨラムはあのことを知ってるの? その・・・父上が、彼の宗教の創始者を処刑してしまったこと?」と、マーセラスが父親にたずねた。
「ああ、そのことは話した。ゆるしてくれたよ。ゆるしは、イエスが説いておられた律法なのだそうだ。」
マーセラスはだまってしまった。そして、母親といっしょに、沈みゆく太陽をながめながら、物思いにふけっていた。
しばらくすると、マーセラスは母親にささやいた。「だから、あいつは親のことを話したがらないんだね。」
またもや沈黙の時が流れた。奴隷の娘が、羊のスープとパンと副菜などを持ってきてテーブルの上に置き、そそくさと出て行った。
「父上。つまり、父上が・・・え~っと・・・手を下さなければならなかったあの人は、本当に神の子だったの?」
「そういうことだ。あの時も、今もね。それを知って、私は自分の行いを深く悔やんだ。だが、その後、十字架上で彼が言った言葉を思い出した。『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』 それで、私は分かった。彼も、彼の父も、私をゆるして下さったということをね。だから、神御自身の御子が、このような私の罪でも父に願ってゆるしていただけるなら、私の一人息子であるお前が父親に、ただ自分の仕事をしていて、気付かなかったミスのことで、このかわいそうな奴隷少年をゆるしてあげるよう願えないはずはないだろう?」
その夜、マーセラスはベッドに横たわったまま、なかなか寝付けずにいた。手がズキズキ痛んだ上に、心には葛藤があった。自分の神の手と足に釘を打ち込んだ者に対して、自分だったらどう振る舞うだろうか。それだけではない。今のヨラムのように、奴隷とは言え親切にしてくれる人達が、自分の両親をライオンの餌食にするのを黙認していたのと同族の人達だったら、どうするだろう?
自分だったら、どうしていただろう?
マーセラスだったら、ヨラムとちがって、ローマのことを何でもかんでも口汚くののしり、仕事をするにも腹立ちまぎれで、まして彼らの金持ちの子らと仲良くするなんてことは、絶対にないだろう。
ところがヨラムは、ガルス家に来た日から、マーセラスが怠け者で未熟であるにも関わらず、礼儀正しく敬意をこめて接してくれたのだ。
もしゆるしが必要な者がいるとしたら、それはマーセラスであり、彼の家族であり、そしてローマの人達だ。マーセラスはそう結論を出すと、眠りに落ちた。
翌朝、彼の顔はよく眠れなかった様子だったが、夕べ深く考えて出した結果には満足し、清々しい気持ちで奴隷達のいる区画に向かった。ヤギの乳しぼりをしていた若い娘達がクスクスと笑ったので、マーセラスは赤面して、トーガのほこりを払った。今にも逃げ出したい気分だった。
「ユ、ユダヤ人奴隷のヨラムを探しているんだけど。」
「いないわ。」と、娘の一人が言った。
「いないって? 本当なの?」
「ええ、本当よ。ベッドは空だったし、持ち物もなかったわ。」
「きっと、夜の間に出て行ったんだわ。」と、他の娘が言った。「彼の立場にはなりたくないわね。つかまったら、焼印を推されて、むち打ちの刑だもの。すごく大きな奴隷用の腕輪を付けてるから、すぐに見つかってつかまるわ。逃げた奴隷をつかまえると、かなりの賞金がもらえるしね。」
マーセラスはショックを受け、よろよろしながら屋敷へ戻って行った。日が経つと、ヨラムへの償いの気持ちが薄れてしまうのではないかと気がかりだった。屋敷のアトリウム(広間)に入ると、母親は奴隷の女性美容師に髪を結ってもらっていた。父親は立って腰に剣を装着しながら、仕事に出かける前に、大勢の男性奴隷達に指図をしていた。厨房からは、焼き立てパンの香りが漂っていた。だが、マーセラスの食欲は減退するばかりだった。
ドミティラは、マーセラスが明らかに悔しそうな顔をしていると言った。マーセラスは、父親が家を出ていくのを待って、母親に返事した。
「ヨラムが・・・いないですって?」 美容師を退室させると、母親がささやいた。
「うん。父上は、彼をつかまえた人に賞金を出すの?」
「おそらくね。」
「つかまったら、むち打ちの刑にするの?」
「おそらくそうなるわ。他の奴隷達への見せしめにね。そうしないと、父上は反抗の罪に問われることになるもの。」
マーセラスは頭を振って、床を見つめていた。涙があふれてきた。
「だけどね。賞金がなければ彼を引き渡してくれない、道徳心や節操のない人達の手に落ちる運命よりは、ずっといいわ。」と、母親が言った。
その時、廊下の方から、緊急の用事でドミティラ様に会いたいという人が来ているという知らせが入った。ドミティラは、息子をアトリウムに残して出て行った。マーセラスがそっとカーテンに近づくと、向こう側から静かに話す声が聞こえてきた。
「すぐに彼だと分かりました。」
「ああ、遠くへは行ってなかったね。むしろ、こっちに向かってたくらいさ。クリスチャンだから、逃げようとしていたのを考え直して、自首するために戻って来たなんて、でたらめな話をしていたよ。」
「つまり、我々が彼を見つけたということです。」
「それで、ご要望は?」と、ドミティラがたずねた。
「ご主人が高額な身代金を提示するだろうことを考えれば、我々が提示する価格は安いものです。」
「では、なぜ主人の提示を待たないのかしら?」
「奥様、それは手の内の一羽に過ぎません。我々は、茂みに隠れているもっと多くをつかまえることができますぜ。」
「一体どういうことです?」
「隠れているクリスチャン達の居所を知っているってことです。」
「そうですか。いくらご要望ですか?」
「たったの銀貨50枚です。」
「引き渡しの時にお支払いしましょう。いつになりますか?」
「1時間以内に連れて来ます、奥様。」
その時間、マーセラスは前庭でうろうろしながら待っていた。
「何しに来たの?」 屋敷の階段を降りて来たドミティラがたずねた。
「母上、耳にしました。つかまえたって・・・」
門が開くと、馬に乗った男が二人、入ってきた。一人は手首を縛られたヨラムを連れ、もう一人は今朝の交渉人だった。男は馬を下りて、ドミティラにあいさつした。ドミティラはヨラムのなわを解くようにと言った。
「水飲み場で顔を洗ってきなさい。」と、ドミティラは少年に言った。
ヨラムは、非常にありがたい気持ちで水を飲み、顔を洗った。マーセラスを見ると、顔をそむけた。
ヨラムはマーセラスに背中を向けたまま、急に口ごもって言った。「き、君の手・・・どんな具合かい?」
「う~ん、大丈夫。昨夜はあまりよく眠れなかったけど、大丈夫だよ。」
「そ、それは良かった。昨夜は君のために祈ったんだ。」
「祈ったって? 神々に?」
「神様に。特に、神の御子にね。」
「父上が・・・あのナザレの人?」
ヨラムが振り向いて言った。「そうだよ、イエス様にね。」
マーセラスは、思わずつばをのんだ。そして続けた。「か、彼は、君と同じユダヤ人だったんだよね?」
「それはあまり重要じゃないけどね。エチオピア人だったとしてもいいんだし。」と、ヨラムが言った。
「どうして逃げたんだい? それが危険だってことは知っていただろう?」と、マーセラス。
「昨夜、君の父上がぼくをむち打ちの刑にするって叫んでいるのを聞いて、こわくなっちゃったんだ。」
「だけど、どっちみちそうなってしまうか、もっとひどいことにもなり得るよね。」
ヨラムはうなずいた。「そうだね。だけど、ぼくが愛するようになった君や君の家族からゆるしてもらえないという傷の方が、辛いと思ったんだ。だから、途中で考え直したんだ。」
「それで、自首することにしたのかい?」
「うん。だけど、誰も信じてくれないんだ。」
「それでね、ヨラム。・・・」と、マーセラスが言いかけた。
ドミティラがこちらに向かいながら、悲しそうに言った。「取引が成立したわ。残念だけど、ヨラム、あなたを拘置部屋に連れて行かなければならないの。」
翌日の早朝、ガルス家の人達と150人ほどの奴隷達が、ヨラムが罰を受けるのを見守るために集まった。ドミティラとマーセラス、それに奴隷の娘達の泣き声だけが、その場の重々しい静けさをかき乱していた。
「父上、こんなこと、やめられないの? ヨラムは自首したんだよ。」 マーセラスが泣きながら嘆願した。
「済まないな、マーセラス。何か他に手立てがあればいいのだが。彼の脱走がうまく行っていれば、見て見ぬ振りをすることもできたが、母上も言っていたように、もし犬共の手に落ちれば、もっとひどい目にあうんだぞ。」
兵士が、厳格な表情でゆっくりと、ほこりっぽい放牧場にヨラムを引いて来た。中央には、血のついた傷だらけの木の柱が立っていて、さびついた手錠が取り付けられていた。険しい顔の屈強そうな守衛がむちを持って、兵士とヨラムの後に続いた。
「待って!」
兵士がヨラムの手首にその手錠をかけようとした時、悲痛な叫び声が響いた。
「マーセラス、一体どういうことだ?」 クレメンスは放牧場に入って来た息子に問うた。
「ぼくがヨラムの罰を受けなくちゃいけないんだ。」
「何だって?」
「父上。ぼくがいなかったら、彼はこんなことにはなっていなかったんだもの。」
「マーセラス、やめて! 彼の身代わりになるなんて、だめよ!」 ドミティラが泣き叫んだ。
「ごめんなさい、母上。だけど、ぼくはそうしなくちゃいけないんだ。」
「そんなことは許さないぞ!」と、クレメンスが叫んだ。
ヨラムは守衛の手から抜け出してマーセラスにかけ寄った。「だめだよ! そんなこと、君にはさせない!」と、ヨラムが叫んだ。
「そうしなくちゃいけないんだ。」と、マーセラスは落ち着いて言い放った。
ヨラムはこぶしをあげたが、マーセラスはそれをたくみにかわした。
「マーセラス、この罰を受けさせて。もし君が身代わりになんてなったら、ぼくは真っ当に生きていけないよ。」
「どうして?」
「君はローマ人だろ。戦うことが武勇になるんだろ? ぼくは君を、剣や槍を使えないようにしてしまったんだ。」
「だけどヨラム、誰かが君の罰を身代わりに受けるなら、君にも価値があることが証明されるんだ。」
「彼を止めて、クレメンス。力づくでも止めるのよ。」と、ドミティラがささやいた。
クレメンスは力なく首を振った。
「お願いだから、ヨラム。ぼくがもう剣や槍を使えないなら、こういう方法で自分の武勇を証明させて欲しいんだ。」
ヨラムは足を地面にこすり付けていたが、やがて、目を輝かせて顔を上げた。
「それは変えられるよ。」と、ヨラムは言った。
「どういうことだい?」
「手を出して。」
「何だって?」
「ぼくの手を握って!」
マーセラスは渋々ヨラムの手を握った。すると、驚いたことに、このユダヤ人少年は目を閉じて、マーセラスの手をしっかりとつかんだ。
「ナザレの主イエス様。」 ヨラムは見ている人達に聞こえるように、大きな声で祈った。「あなたのいやしの力でマーセラスの手に触れて下さるよう、求めます。あなたの弟子マルコが書き記しているように、あなたが萎えた手の人にして下さったように、マーセラスの手も、完全に癒やして下さい。」
マーセラスは息をのんで、ハッとした。手に力がみなぎってくるのを感じ、ヨラムから手を引いた。
「包帯を取って。」 ヨラムが静かに言った。マーセラスは守衛にナイフを借りて、包帯を切りほどいた。
全く信じられないといった眼差しで、マーセラスは指を動かし、ナイフの柄を握った。それから頭を横に振りながら、嬉しそうに笑って、驚いている両親にその手を振った。
「父上! 剣が握れるようになったよ!」と、マーセラスが叫んだ。
見物人達は歓声を上げて、拍手喝采をした。ヨラムは毅然とした様子で木の柱に戻り、兵士に両手を差し出した。守衛は、たった今起こった奇跡には全く無関心のようで、自分の仕事を果たすためにむちを空で打ち鳴らし始めたので、マーセラスと観衆が抗議の声を上げた。マーセラスはクレメンスの方を見て、合図を待った。
護民官のクレメンス・ガルスは手を挙げ、頭を横に振った。
「真のローマ帝国の伝統に則って両者が示した、このような高潔さと勇気を罰したい者はいるだろうか? もしいるなら、前に出よ。我が息子の手を癒やして下さった、ヨラムの王であり、神の御子でもある方の言葉を借りれば、『そのような人に最初の石を投げさせよ。』」
その場が静まり返って人々が見守る中、兵士は両手を挙げて立ち去った。すると守衛も、頭を垂れ、むちを投げ捨てて、兵士に続いた。群衆は歓声を上げた。ドミティラも奴隷の娘達も、今度は喜びのあまり、むせび泣いていた。クレメンスは、その夜の祝宴のために準備を命じた。
クレメンスは、満たされた聖杯を掲げて言った。「ここに、ヨラムの自由を宣言する! そして、奴隷の腕輪を正式に外すものとする。」
横に立っていたヨラムは、主人とその奥様の好意で、見事な刺繍の施されたトーガをまとっていた。ヨラムは会釈して、歓声を上げている客にあいさつした。
「我が主人の御恩に感謝していますが、私はその自由を放棄いたします。そして、クレメンス・ガルス様とドミティラ様の高貴なお家にお仕えし続けたいと思います。私を気遣い、まるで息子同様に良くして下さったからです。」
クレメンスはほほ笑んで、ヨラムの肩に手を置いた。「その通りです。私と妻は、その気遣いを正式なものにしたいと思います。」
「どういうことでしょうか、旦那様。」
「明日、私は養子縁組の書類を作成します。」
ヨラムはあっけにとられ、歓声を上げている群衆に言う言葉を失った。すると、ドミティラとマーセラスが前に出て来て、ヨラムを抱きしめた。
遂に、涙でかすんだ目にほほ笑みを浮かべて、ヨラムが言った。「箴言に書かれた、この言葉は本当でした。『しもべをその幼い時から大切に育てる人は、ついにはそれを自分の息子にする。』」*1*
「それは名言だな。誰の言葉かい?」と、クレメンス。
「我が民の最たる賢者の一人です!」と、ヨラムが答えた。
終わり
脚注:
*1* 箴言 29:21参照