すばらしく 報いてくださる わたしたちの 王様
イエス様や、だれか ほかの 人に 何かを あげて、イエス様への 愛を 表すと、イエス様は それに 報いて お返しを してくださる。それが 事実なんだ!
それは ちょうど、お店へ 行って 店員さんに お金を 渡すと、その代わりに 店員さんは 君が 買った 物を くれるような ものなんだ。
君が ぎせいにした ものの 代わりとして、たいていの 場合 イエス様は、君にとって 特別で 意味のある もので 報いてくださる。すると、君が ぎせいを はらったことが、価値あることに 思えるんだ。神様からの 報いは、君が はらっただけの 価値が あるだけでは なく、自分が イエス様に 従って、求められたことを したという 満ち足りた 気持ちも 持つことが できる。
受け取るまでに 時間が かかる 祝福も あるから、すぐには その 報いが 見えないかも しれないけれど、早かれおそかれ、君が イエス様に ささげる すべてのものに 対して、イエス様が 報いてくださることは、確かだよ。
聖書には、神様に ささげた 人が 祝福された お話が、たくさん のっているよ。
行く道が 分かれた 時、アブラハムは おいの ロトに、どこに 住みたいかを 選ばせてあげた。そこで ロトは、水が 豊かで 家畜の 食べる 草が いっぱい ある 一番 良い 土地を 選んだ。神様は、ロトに 一番 良いと 思える 土地を あげたことで、アブラハムを 大いに 祝福してくださったんだ。その お話は、創世記の 13章に のっているよ。
何年もの 間 子どもが できなかった ハンナは、初めて 生まれた 息子の サムエルを 神様に ささげた。その子を 神の 宮へ 連れて行って、神に 仕えることを 学ばせたんだ。だけど、その後 たくさんの 子どもを 与えられたんだよ。(サムエル記上 1:4-2:11, 2:21を 読んでね。)
ザレパテの やもめは、ききんの 時、自分に 残された 最後の 小麦粉と 油を 使って、預言者エリヤに パンを 焼いてあげた。だけど その代わりに 神様は、彼女の 小麦粉と 油が つきないように してくださったんだ。だから、彼女と 子どもは 十分 食べることが でき、その後も ずっと、エリヤに 食べ物を あげることが できたんだよ。(列王記上 17:7-16)
受けるよりも 与えるほうが 幸いで ある。(新改訳聖書、使徒の働き 20:35)
ほかにも、与えることについての 聖書の お話を 思いつくかな?
神様に ささげることで 大切なのは、喜んで、心から ささげることだよ。
アブラハムは、おそらくは ロトが 一番 良い 土地を 選ぶだろうと 分かっていながら、喜んで その 選択を ロトに させてあげた。神様が 祝福してくださったのは、アブラハムの、信仰に 満ちた 喜んで 与える 気持ちなんだ。
ハンナは、神様が 息子の サムエルを 与えてくださったことを、とても 喜んだ。その 感謝の 気持ちから、ハンナは 神様に、その子を 神様に 仕えさせるために ささげたいと 言ったんだ。
ザレパテの やもめは、自分に 残された 最後の 食べ物だと 分かっていながら、それを 喜んで あげた。それは、預言者が 言ったことを 信じていたからだよ。
コリント人への 手紙 第二の 9:7で、使徒パウロは、神様は わたしたちが、与えなくては いけないから 与えるのでは なく、神様に ささげたいから そうするのを 望んでおられる、と 言っているよ。「神は 喜んで 与える 人を 愛してくださいます。」(新改訳聖書)
君は 今までに、失うことを 心配して 何かを あげるのを ためらったけど、結局、後のことは 神様に 信頼しようと 思って、あげることに したことは、あるかな?
君の ぎせいや 喜んで 与える 気持ちを 見て、神様は どう 思われただろう?
君は 最近、わたしたちの すばらしく 報いてくださる 王様から、どんな 祝福を もらったかな?
イエス様が 下さる ごほうびは、必ずしも 君が 最高だと 思う 形では 来ないかも しれないけれど、神様は たっぷり 報いてくださると 約束されているよ。
「与えよ。そうすれば、自分にも 与えられるであろう。人々は おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに 量を よくして、あなたがたの ふところに 入れてくれるであろう。」(口語訳聖書、ルカによる 福音書 6:38)
何かを 与えると、神様が すぐに その ごほうびを 下さることも あるけれど、祝福が 後で 来ることも、よく あるんだ。
わたしたちが 望んでいたものを 下さるにしても、ほかの 方法で 祝福してくださるにしても、神様は いつも、わたしたちが 与えるのを 祝福してくださるんだ。