イエス様:神であり 人間でも ある
イエス様は ことばです。そして、最初から 神様の 一部でした。
「初めに、ことばが あった。ことばは 神と ともに あった。ことばは 神であった。 この方は、初めに 神と ともに おられた。 すべての ものは、この方によって 造られた。造られた もので、この方に よらずに できた ものは一つも ない。」(新改訳聖書、ヨハネの 福音書 1:1-3)
神様の 子である イエス様は、赤ちゃんとして この世に 来られました。つまり、完全に 人間に なられたのです。けれども、人間で ありながら、神様でも ありました。
「ことばは 人と なって、私たちの 間に 住まわれた。」(新改訳聖書、ヨハネの 福音書 1:14)
イエス様は 人間の 体を 取って、私達の 元へ 来られました。最初は 赤ちゃんとして 生まれ、成長して 子供に なり、それから 大人に なられたのです。
天使は 羊飼い達に こう 言いました。「あなたがたは、幼な子が 布に くるまって 飼葉おけの 中に 寝かして あるのを 見るであろう。それが、あなたがたに 与えられる しるしである。」(口語訳聖書、ルカによる 福音書 2:12)
「イエスが 十二歳に なった 時も、慣例に 従って 祭のために 上京した。」(口語訳聖書、ルカによる 福音書 2:42)(この話の 一部始終は、ルカによる 福音書の 2:41-52に 書かれています。)
聖書に 書かれている イエス様の 生涯についての 記録は、大人に なってからの 出来事や、弟子達を 教えながら 過ごされた 時の ものが 中心に なっています。
イエス様には、あなたや 私と 同じように、つかれたり、お腹が 空いたりなど、私達と 同じ、人間としての 必要が ありました。
「朝早く、都に 帰る 途中、イエスは 空腹を 覚えられた。」(聖書協会共同訳聖書、マタイによる 福音書 21:18)
「イエスは 旅に 疲れて、そのまま 井戸の そばに 座っておられた。」(聖書協会共同訳聖書、ヨハネによる 福音書 4:6)
イエス様は 亡くなって よみがえった 後、神であると 同時に、引き続き 人間でも ありました。
イエス様は 2,000年も 前に 亡くなられ、今は 人間の 体で 地上に おられる 訳では ありませんが、それでも 人間で あり、また 神でも あります。
私達は、イエス様が 今でも 人間である ことを 知っています。それは、ひとたび 亡くなられた 後、人間の 体のまま よみがえって、ご自分に 従っていた 女性達の 前に 現れ、その後 弟子達の 前にも 現れたからです。
「女たちは、恐れながらも 大喜びで、急いで 墓を 立ち去り、弟子たちに 知らせるために 走って行った。すると、イエスが 行く手に 立っていて、『おはよう』と 言われたので、女たちは 近寄り、イエスの 足を 抱き、その前に ひれ伏した。イエスは 言われた。『恐れる ことは ない。行って、きょうだいたちに ガリラヤへ 行くように 告げなさい。そこで 私に 会えるだろう。』」(聖書協会共同訳聖書、マタイによる 福音書 28:8-10)
「その日の 夕方、弟子たちは、ユダヤ人を 恐れて、自分たちの いる 家の 戸には みな 鍵を かけていた。そこへ、イエスが 来て 真ん中に 立ち、「あなたがたに 平和が あるように」と 言われた。そう 言って、手と 脇腹とを お見せに なった。弟子たちは、主を 見て 喜んだ。」(聖書協会共同訳聖書、ヨハネによる 福音書 20:19-20)
それが、イエス様についての 素晴らしい 真実です。つまり、イエス様は 神であると 同時に、人間でも あるという ことです。永遠に 渡って、イエス様は 神であり、人間でも あります。だからこそ、イエス様は 私達の 暮らしや 困難を 理解できるのです。イエス様は 私達の 必要が 理解できるので、私達を 助ける 最善の 方法も ご存じです。
イエス様は いつでも 私達を 理解して 下さり、大きな 愛を もって、私達を 愛情深く 世話して 下さると 信じて いましょう!